東京B級百景〜その4〜 江戸前寿司「三ッ木」へ@門前仲町

◎どうしても行きたかったバスフィッシング

中学校の修学旅行は京都であった。
当時の僕は京都などめっきり興味がなく、いかに修学旅行を楽しむかで悩んでいた。先生は、いくつかのプランを提示してくる。他県の奈良や女子が色めき立つ嵐山などもあったが、僕にとっては奈良も京都と代わり映えせず、嵐山のジャニーズショップにも興味はない。寺なのか神社なのかの区別すらもつかないガキだった。アイドルに興味を持つ女子ではなく、そんな女子に恋心を抱くマセたガキでもなかった。
しばらく地図帳との睨み合いが続く。社会の時間となれば、堂々と45分間も地図帳を眺めた。
そこで一筋の光明を見いだす。滋賀県・琵琶湖である。

そうか、琵琶湖で釣りをすればいいのか…。僕は世紀の大発見をしたかのように嬉しくなった。
が、先生がたのお赦しを得られる保証はない。滋賀県へ釣りに行くプランなど一蹴されることも考えられる、いや、むしろその可能性の方が高いだろう。
さらには、距離という問題もあった。隣県とはいえ、かなり遠かったのだ。形式だけでも、京都の寺院を見てから、琵琶湖に向かうのでは、時間的に厳しいものがある。つまり、琵琶湖だけのプランを考える必要があったのだ。

そこで釣り好きの友人と捏ち上げたのは、「環境問題」だった。
琵琶湖、湖南の東岸に位置する、琵琶湖博物館において琵琶湖の環境問題を調べにいくというプランを練り上げたのである。当時の琵琶湖では、富栄養化の影響でアオコが発生するという問題が起きていた。中学校内では比較的優等生として通っていた僕のそのプランは、見事に認められることになった。

だが、竿の問題があった。ブラックバスを狙ったルアーフィッシングを目的としていたのだが、竿は1メートル80センチ程度ある。2つに分けられる竿でも1メートル近くあった。これでは、先生方に、本来の目的がバレてしまう…。また、コンパクトに収納できる「振り出し竿」と呼ばれる竿もあったのだが、変なこだわりを持った僕はそんな外道なものには手を出したくないと意地を張った。(ルアーフィッシング用の振り出し竿にはロクなものがないと思っていた)

路頭に迷うある日、中古竿を扱う隣町の釣り具屋に遠征に出た。そこで、運命的な出会いがあった。4つに分けられる継ぎ竿が売られていたのだ。これならば50センチにも満たないので、鞄に隠すことができた。こうして、まんまと琵琶湖でバスフィッシングをすることに成功したのである。


琵琶湖の湖畔にて。朝日に照らされる蓬莱山。

◎身分不相応のお店は緊張する

そのおじさんは、いきなり話に入ってきた。びっくりした僕は顔が引き攣っていたに違いない。声もうわずっていただろう。多少の嫌悪の空気も出してしまっていたかもしれない。
それでも構わず、お座席から僕らの座るカウンターへやってきた…。

江戸和竿・松本東作のお店を浅草稲荷町に訪ねておよそひと月。
江戸和竿が飾られているという門前仲町にある三ツ木という江戸前寿司の店を訪れた。作家・山本一力が、小説『銀シャリ』の題材とした主人がいる寿司屋でもある。


門前仲町駅から徒歩2分、江戸前寿司「三ッ木」

門構えからして敷居が高く、ましてや文豪の行きつけとあっては、恐るるに十分だった。こんな若造が入っていいものかと、おそるおそる店内へと足を踏み入れる。若い衆がカウンターの中で忙しなく働いているが、客はお座席に1人だけ。音楽やラジオなどはかかっておらず、店内には包丁の立てる音だけが鳴り響く。
その雰囲気に一瞬たじろぐも、なんとかカウンターまで進み腰をかける。若い衆が何かを言っているが、頭に入ってこない。おしぼりを渡され、飲み物を「何か飲みますか」と尋ねられる。お茶をいただき、一息つくとようやく落ち着いてくる。
店内を見渡すと、お客のように見えるおじさんは、なぜか寿司ではなく、幕の内弁当を頬張っていた。さすが江戸は違う、と、ごちりそうになる。
さらにカウンター奥の壁にまで目をやると、そこには和竿が飾られていた。よかった、ここで間違いない…。
「これ、江戸和竿ですよね? 知り合いの編集者の人に、このお店に江戸和竿が飾られているから行ってごらんと勧められて、来ました」
そう言うと、若い衆は、
「そうなんですか、たまにそういう方もいらっしゃいますね。で、何にしますか?」
と、少し素っ気なく答えた。あまりベラベラと話すと親方にでも怒られるのだろうか。
季節おまかせにぎり(3500円)を注文し、しばし待つ。


店内に飾られた江戸和竿

◎美味しい! はずなのに、味が頭に回ってこない

「実は先日、松本東作さんのお店に行ってきたんですが、東作さんには会えませんでした。今考えれば、当たり前すよね。東作さんが店頭に立っている訳ありませんでした…」
そう言うと、さきほどまで、お弁当を頬張っていたおじさんが急に話に入ってきた。
「まぁな、6代目はもうかなり年がいっているし、最近ではほとんど人前に顔も出さないらしいからなぁ…」と語りながら、向かいのカウンター席に座る。
僕が「釣り文化資料館」に行った話をすると、おじさんは竿師「泰地屋東作」の経緯を事細かく語り始める。さも近所の知り合いの話をするかのようだった。
いったいこの人は誰なんだ…。その疑念が頭を駆け巡り、なかなか話を噛み砕くことができない。
一品目の、大トロが出てくる。
これがまた美味い! のだけれど、その美味さの余韻に浸ることができない。おじさんの話が次々と浴びせられるからである。

「で、誰の紹介で来たんだ?」
4貫ほど食したあと、聞かれる。
そこでようやく気づいた。まさか、この人が…。
「えっと、○○さんという、良くしてもらっている方がいてその人に」
「あぁ、○○君ね、そうか彼の紹介できたのか」
やっぱりそうだ、ようやく合点がいった。彼がこの店の親方であり、『銀シャリ』のモデルであり、江戸和竿の持ち主であるのだ。心の中で謝った、「すみません、そこらへんの迷惑な酔っぱらいかと思っていました」と。と同時に、若い衆を少しうらむ。だったら、若い衆も言ってくれればいいのに、そんなそぶりを少しも見せなかったじゃないか!(若い衆から親方へむやみに話し掛けてはいけないのかもしれない)

なぜ「継ぎ竿」というものが必要だったかを熱弁してくれた。
江戸和竿の名門である「泰地屋東作」は1788年の創業である。当時、釣り竿というと、延べ竿(一本の竹)だった。それを持ち運びに便利なようコンパクトに収納できるようにした「継ぎ竿」を売り出したのが、「泰地屋東作」だった。当時、なぜそんな「継ぎ竿」が成功したのか、おじさん、いや、三ッ木の主人である三ッ木新吉さんは教えてくれた。
「当時の釣り好きは、仕事に行くフリをして釣りに興じた。けれど、それは女房が許さない。そこで、袖の下に竿を隠す必要があったんだよ。それが継ぎ竿が流行った理由だよ」
それを聞いたとき、僕は中学の修学旅行を思い出した! そう、冒頭に書いた修学旅行の顛末である。当時の僕と江戸の釣り好きたちは同じことを考えていたのである。
嬉しくなって、僕も熱弁する。当時の修学旅行のこと、マレーシアくんだりまで怪魚を釣りに行ったこと、よく天城の山中へアマゴ釣りに行くことなど。


河津で釣ったヤマメ(アマゴでなく)。*ピントが合っていない…
◎あっさりと和竿製作現場へを足を踏み入れる

矢継ぎ早に話しながら、美味い寿司(その味はあまり詳しく覚えていない…もういちど行かなくては)を食べ終えると、おじさんは江戸和竿を作る作業場へと案内してくれた。そう、彼自身も江戸和竿職人であるのだ。江戸和竿4代目竿治に師事し、「新治」として活躍している。(「竿治」も暖簾分けした東作一門である)


並べられた材料の布袋竹や真竹、矢竹など

中国語の張り紙が貼られ、いかにも怪しそうな古いマンションを行くと、その一室が作業場となっていた。
中へ進むと、所狭しと竹が並べられている。漆や和竿作りに欠かせない、さまざまな道具も並べられている。
どういう和竿が良いものか、どういうものが悪いものかなど、実際の竿をもって教えてくださった。芸術品などと最近では言われるようだが、やっぱり道具は使ってなんぼの世界であるし、いくら良品でも、使い手との相性が良くなければ、それは一級品ではないと言う。
なるほど、確かにいくら一級品だと言われているものでも、使う人によっては、それがてんで使い物にならないときもある。
どんな世界でも同じことが言えるだろう。とても大切なことだ。
だからこそ、手作りというものの良さがあるのだとも思える。手作りという個性がなければ、相性は産まれない。たとえ機械製品である一級品とまるっきり同じものを作れたとしても、それはある1人にとっては一級品かもしれないが、その他大勢にとっては単なる機械製品以上にはなりづらいのである。
「誰にとっても使いやすい」は「誰にとっても2級品」と陥りやすいということかもしれない。


床にタナゴ竿を並べて、「良い竿とは」を解説してくれた

三ツ木新吉さんはいつでも修行に来て良い、いつでも教えてやると言ってくれた。ぜひともお願いしたいところなのだが、僕にはけっこう強めのアレルギー持ちであるから、漆に耐えられるか不安である。さらには時間もあまり割けないので、いまのところ保留にしてある。

「我こそ学びたい!」というかたが本ブログ読者でいれば、ぜひ教えてくださいね。すぐにでも紹介します。そんな感じで、B級百景「江戸和竿シリーズ」(いつのまにそんなシリーズに!?)は、いったん完結。次回は、あの有名人のお墓に行きます!